2013年1月23日
S.P.N POWER
セカンドフルアルバム「この風の向こうに」発売!
S.P.N POWER /この風の向こうに
1 防風林の向こうに
2 明日の鍵
3 雪 吹けば
4 北風
5 街灯の下
6 風が吹いている
7 夕陽ニ誓フ
8 影笑う
9 鳴かない空
RLCA1166 / 2,205円(税込)
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S.P.N POWER高取からの手紙


前略、弘前は雪です。
そちらの冬、いかがお過ごしでしょうか。
道北の士別市を離れて16年が経とうとしております。
雪を見ると、旅立ったあの日が 思い出されます。
ひとつ、ご報告があります。
私がやり続けてきたバンド、S.P.N POWERが2013年1月23日、セカンドアルバム『この風の向こうに』をリリースすることになりました。
30代半ばになっておりますが、あいかわらず、ベースを弾いて歌っております。歌いたい事や、言葉にしたい風景、いまだに絶えません。
これは喜んでいいのか、哀れむべきなのか自分では判断つきませんが、湧き出てくるものは抑えられないのです。
何も為し終えていないバンドでありますが、アルバムという形を作ることができました。たくさんの出会いと別れ、軋轢やちょっとした挫折、それら全てに感謝して、このアル バムをお届けいたします。

1997年4月、津軽弘前に移り住んで間もなく、高取宏樹(Bass,Vo)と菊池正芳(Gu,Vo)と 佐久間諭士(Dr,cho)の3人でバンドを結成しました。
既に大人気バンドとなっていたRANCIDやGreen Day等に刺激を受け、快進撃を続けるHi-StandardのLIVEを追っかけていた私は、とにかくバンドがやりたかったですね。
曲のつくり方もわからないのに、 デタラメな英詞で感ずるままにガナっていたものです。
初めて作った曲「Pick Boy」の歌詞の大意は、「鼻くそほじって悪いか?」という、恥ずかしすぎる歌詞でした。
しかし、そんなバンドも楽しくて、夜毎にメンバーで集い、酒を飲んでおりました。
一人暮らしの寂しさもあったのでしょう。「すっぽんパワー」と名付けられたその3人は、大学の先輩や仲間たちとのライブをし、溢れ出る根拠の無い自信をツマミに、実践の伴わない音楽談義に明け暮れていました。
当時、弘前では、LIVEHOUSE「Orange County」を拠点にCREEPSやステイツマンが企画を行っていました。
青森市でも、できたばかりの「SUBLIME」を拠点にSOURCE AGEやCa-Pなど20代の諸先輩バンドが活動しておりました。
ある日、弘前Orange Countyというライブハウスで、CREEPSとSOURCE AGEのライヴを見た私は、盛り上がってモッシュしたりしつつも、若さゆえの強がりから、「結構かっこいいかも」とメンバーに強がり気味に報告していました。
それと並行して、仙台、札幌、盛岡などにライブを見に行く度に、都会のレコード屋に寄り、ドッサリと輸入盤、国内PUNK/HARD COREのレコードを抱えて帰ってきていま した。
これら内外のPUNKからは、物事への視点を学びました。近代社会の仕組みと人間の軋轢を学びました。情熱の表し方を学びました。
そして、ライブ観戦に行くたびに、対バンとして出演していた地元ローカルバンドに 刺激を受けました。
満員の観客の前で、凄まじいプレイを叩きつけ、聴衆をひきよせる彼らのステージに、「こんなことが(地方に住んでいても)、できるんだ…」ひとつの カルチャーショックを受けたのは間違いありません。

1997年秋、全国的なインディーズブーム爆発前夜の波が青森にも押し寄せ、人気バンドがツアーで来るようになりました。
弘前には、キャパ350人を有するMag-NetというLIVEHOUSE/CLUBがオープン。
LIVEのこけら落としにはSUNS OWLとSPACE COMBINEがやってきました。
「すっぽんパワー」はその頃、OPERATION IVYのようなSKA PUNKサウンドに傾倒し、磨きをかける毎日でした。
「名刺替わりのデモテープ」を作ろうと、先輩に借りたYAMAHAの4トラックレコーダーで5曲ほどレコーディングしました。
最初に渡したのは、当時、弘前PUNKシーンの若頭であったCREEPS竹内氏でした。
SNAIL RAMP来青時、ライヴ終了後にドキドキしながら手渡ししたものです。
それがきっかけで、冬にCREEPSらとの初共演を果たし、彼らの紹介やお誘いにより、一気にライヴの機会も増え、青森市や秋田への遠征も行うようになりました。

そして、1998年6月14日、弘前Mag-NetにPOTSHOTとYOUNG PUNCHがやってくる、とい う情報を聞きつけた私はCREEPS竹内氏に直訴して、出演させていただくことになりました。
これまで、「このライヴに出させてください!!」と直訴したのは、今のところ、この1回限りです。
そのライブ当日は、集客も多く、熱いライブとなりました。我々は トップバッターを努め、同世代のお客様に暖かく迎えられました。
顔見知りの仲間もたくさん見に来てくれました。にも関わらず、私のMC第一声は、「弘前にこんなに人がいるとは、知りませんでした」という、ひねくれた言葉でした。振り返ると、メガトンパンチを食らわせたい心境です。
とはいえ、この日は、終始大盛り上りで、たまたま私の20歳の誕生日ということもあって、大変感動したものです。
「何かが変わる」 、「この街でも、やればできる…かも?」という熱い思いがこみ上げました。
それをきっかけに、CREEPSとの共同企画「UPON MY LIFE」はスタートし、月に2〜3回のハイペースで、多くのツアーバンドをゲストとして招き、爆発していたインディーズムーブメントに本州北端から関わっていったのでした。
SNAIL RAMP、SHORT CIRCUIT、PULLING TEETH、PANORAMA AFRO、GOING STEADY他、東京方面のバンド達や、ROSALIND(盛岡)、ERGEIZ(札幌),Quack(網走)他各地のバンド、この企画を運営し、共演していく中で得た出会いや、発見、経験はいまだに財産になっております。
回を重ねるうちに思いを強くしたのは、「地元の前座バンド」で終わるようなライヴはしてはいけない、ということです。
共演バンドと、戦わなくてはいけないということでした。
多くは負け試合で、悔しい思いもたくさんしましたが、糧になったことは揺らぎ無い事実であります。
時代は、ファッションも含めた、いわゆる「エアジャム世代」全盛期。弘前の街でも、バンドTシャツを来て歩く若者が多く見られ、バンドに注目が集まっていました。
地方在住の同世代バンドも全国流通の音源を続々リリースしていくようになり、共同企画をしていたCREEPSも全国流通音源をリリースし、人気を博しました。我々も各地への遠征を積極的に行うようになっていきました。
弘前にも、同世代バンドがたくさん増え、賑やかにライヴを行っておりました。
ちょうどその頃、大学卒業のタイミングにあった我々は悩んでおりました。
不安を抱えつつも、バンド続行の意思は固く、上京も含め、方向性を悩んでおりました。結局、Gtマサヨシだけが、岩手の実家で家業を手伝い、残り二人は弘前在住の中距離恋愛バンドとして活動することとなりました。高取は弘前Mag-Netスタッフとして働き始めました。
経済的、将来に対する年齢的な焦りも含め、よりバンドマンらしい生活を続けるうち、より真剣に自分たちの音楽と、自分自身と向き合っていくようになりました。
試行錯誤の結果、日本詞の歌詞で歌うことを選択し、それまでの英詞前提の曲を演奏しないようになりました。
そして、必然なのか、それが私の根幹に近いのか、冬雪の唄、北国の唄、葛藤の唄が多くなっていきました。
そして2003年春、ファーストアルバム『S.P.N POWER』(いつの間にか表記と読みが変わっている)を自主制作リリースしました。
が、実は、このアルバム制作が終わった冬、マサヨシ(Gt.)とサトシ(Dr.)の二人のオリジナルメンバーの脱退が決まっていたのです。
家庭や自身の都合で、バンドのペースを落とすことができない、という理由でした。
私はメンバー脱退初体験に戸惑い、 苛立ち、絶望の淵を見た気になり、酒を飲んでは荒れていたものです。
しかし、時間は頼みもしないのに進んでいきます。皮肉なことに、ありがたいお誘いが急増してきたのもこの時期です。
その年の9月まで脱退発表は控え、脱退するライブの1週間前、HAWAIIAN6弘前初登場のライブ当日、ステージ上で二人の脱退を発表しました。
2003年9月15日、第一期S.P.N POWERは幕を閉じ、その散り際には、見たことの無い数の聴衆が集まってくれました。
しかし、ここでも私のMC第一声は「最後だからってこんなに集まりやがって…」というヒネクレた物でした…。
悲しみと不安に、向き合う力がなかったのかもしれません。
青春を共に歩んだ二人のメンバーとの別れ、濃密な数十分でした。悔いのないように輝きを見せる、彼らとの最後の戦いを味わったのでした。

同じ年の10月、たった1ヶ月のブランクをおいて、パンチ(Gt)、トオル(Gt)、ヤジ(Dr)の新メンバーを迎え、ツインギターの4人バンドとして復活を果たした第二期S.P.N POWERは見切り発車しました。
「ライヴがバンドを作る」そう信じて、誘われたライヴに片っ端から参戦し、遠征も積極的に行いました。
ガムシャラでした。ヤジ→タナカユウキ→木村シンゴ→ドラゴン→タカヤと、Durmsは数ヶ月単位で目まぐるしく変わります。
ギターもトオル→ito-Kに変わっていきました。
落ち着かないバンドにも関わらず、各地ツアー同行に誘っていただけるバンドも増えました。
夏には「漢祭り」開催も始め、ゆっくりと新曲群も増えていきました。
この頃はバンドのペースを維持することと、メンバーの意向とを、うまくマッチングさせる事ができていなかったと思います。
強引な要望や、諸々の事情により、嫌な思いをした元メンバー諸氏には心から謝りたいです。
2006年1月、再び私を除くメンバー全員が脱退するということになり、遂に私の心も、ほとんど折れました。
「活動凍結」という、謎の声明を出し、ライブのブッキングはおろか、メンバー募集さえしない時期を過ごしました。
一度、ゆっくり考えて見ようとしました。
考えれば考えるほど、「ライヴやりたい」「バンドで唄いたい」という思いと、「この辺でやめとけば?…」という囁きとが戦う夜が続きました。
映画を見たり、本を読んだりしました。 部屋の棚からレコードやCDを引っ張り出しては聴きました。
10代の頃、買い漁った数々の音源を聴き直しました。対バンからもらったデモテープも再生してみました。
自分たちの昔のライヴの録音テープも聴きました。
「ウダウダ言ってないで、やればいいではないか」そういう答えに固まるまで、そう長くはかかりませんでした。
出会って きた音楽を思い出にしまい込むには、まだ早すぎる。
もっとモガいて吐き出してみても良いではないか、そうしないで生きていけるのか?
葛藤の末、そういう答えにたどり着いたのです。
旧知の、岩手県に住むドラムmuraに電話をかけて説得し、再始動の準備を始めました。
ギターにソウイチを迎え、2006年夏にはライヴを再開しました。
翌年の夏には、ギターにタシュンを迎え、曲作りのペースもあがり、ライブ本数も増えてきました。
ようやくギターも落ち着き、中距離バンド活動にも慣れた頃、muraから脱退の申し出がありました。
ショックではあったものの、もはや次の事を悩まないようになりました。
その後は、前田ヒロカズ(久慈)→ヨシダ(盛岡)→クルタケサンと、 1年単位でドラムが変わりつつも、変わらぬペースで活動を行うようになります。
続けていく中で、野外フェス等、各地へのお招きも受けるようになり、新たな出会い、広がりも実感できるようになりました。

2011年からはUMETSUがサポートドラムを努め、2012年春、溜まってきた楽曲を録音しました。
どのように発表しようか考えていた頃、HOPPING RECORDSからリリースの話をいただきました。
SLANGのKO氏が代表を務めるライブハウス、KLUB COUNTER ACTIONが運営するレーベルであり、数年来の様々なやり取りもありました。
何より、ライヴを見てもらって、直後に声をかけていただいた事が嬉しかったです。
様々な思いを載せて、こちらのレーベルからのリリースと相成りました。

インディーズブームは遠い記憶の彼方に去りましたが、むしろ、当時よりも各地でLIVEHOUSEは増え続けております。
全国に同志と呼べる仲間たくさんいてくれます。
弘前でもたくさんのバンドがそれぞれの思いを楽曲に込めて歌っております。
バンドは身近になったのかも知れません。
これまでのバンド活動の中で、何が正解かは、いまだにわかりません。
しかし、何が嘘かはわかるようになりました。
我々のセカンド アルバム『この風の向こうに』では、所謂新しいことは何一つやっていないでしょう。
単純と言える楽曲にあわせて、男がガナっています。
この10年間に生まれた曲のなかから、唄いたい曲が収録されております。
皆様のお耳に、願わくば心に、触れていただければ嬉しいです。
2013年冬、「近代」が、より巧妙に、獰猛に、日本を完全に呑み込もうとしています。
全国的に冷えると言われているこの冬、まだまだ寒さが続きます。
どうぞご自愛のほど。


草々
HOPPING RECORDS
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